キリスト教

フランシスコの祈り

キリスト教の神聖さを思わせる深い青色の空と白い雲
zaruza

主よ、わたしを平和の器とならせてください。
憎しみのあるところに愛を、
争いのあるところに赦しを、
分裂のあるところに一致を、
疑いのあるところに信仰を、
誤りのあるところに真理を、
絶望のあるところに希望を、
闇に光を、
悲しみのあるところに喜びをもたらすものとしてください。

主よ、慰められることを求めるよりも、慰めることを求め、
理解されることよりも理解することを求め、
愛されることよりも愛することを求めさせてください。
わたしたちは与えることで与えられ、
赦すことで赦され、
自分を捨てることで永遠の命を得るのですから。

アーメン

世界中で愛されているこの祈祷文は、フランシスコの祈りと呼ばれます。

作者は不詳ですが、この祈りの内容はある聖職者の教えを象徴していると言われます。

この記事では、この祈りの名前にもなった「聖フランシスコ」について紹介し、祈祷文の意味を読み解いていきます。

聖フランシスコ・アシジ

聖フランシスコは、イタリア・アッシジ出身のひとりの修道士です。

世界中に彼の名前に由来する地名や人名があって、サンフランシスコやフランシスコ・ザビエルなども、彼の影響を受けて名づけられました。

この記事の題材「フランシスコの祈り」もまた、彼の精神にもとづく祈りです。

彼はもともとお金のある家の人でしたが、神に仕えるために清貧の暮らしをえらびました。

動物や自然を深く愛し、すべてのものに敬意をもって接しました。

小鳥にも説教をしたと伝えられますが、この説教と言うのは叱ることではなくて、相手が幸せに近づけるように、聖書に基づいて愛をこめて教えてあげることです。

人の指に乗って、つぶらな目で見上げる小さなスズメのヒナ

ふつうは神父や牧師さんが信徒に対して行ってくれるものですが、フランシスコはあらゆる生き物も神の創造物として慈しみ、どんな小さな存在にも愛をもって語りかけたとされています。

修道士としての深い愛が、小鳥などのちいさな生き物にも及んでいたのです。

彼を知るために、もう少し調べてみましょう。

聖フランシスコの時代

彼が生きた12世紀末から13世紀前半は、十字軍の時代にかさなります。

十字軍は、聖地エルサレムを取り戻そう、キリスト教を広めようと派遣されましたが、そのときに「戦うことは神のため」という方針が強調されました。

教会のえらい人の中には、違う宗教を信じる人に対して、考えを試したり、宗教を変えさせたり、場合によっては火あぶりにしたりすることもありました。

ちがう宗教を信じるひとは、敵だったのです。

聖フランシスコの姿勢

「自分たちが正しくて、そうでない者たちは間違っている。」と決めつけてしまうやり方が多かった中、聖フランシスコはちがう思想を持つ相手の話を聞こうとしました。

相手もおなじ人であり、対話する対象だとかんがえたのです。

あいてが何を考えているか、何を大事にしているか、すすんで理解しようとしました。

エジプトで第5回十字軍に参加していた時、彼はイスラム教のスルタン・アル=カーミルと面会し、対話を試みました。

フランシスコはスルタンにキリスト教の信仰を伝えつつも、敵対心や改宗の強制ではなく、平和的な対話を求めたのです。

これはこの時代、とても珍しい出来事でした。

スルタンが改宗することはありませんでしたが、フランシスコの謙虚で献身的な態度は敬意をもって受け入れられ、平和的に会談が終了しました。

自分を顧みない心

でも彼のこのような思想は、十字軍の理念とは相容れないものでした。

フランシスコが敵陣に向かったことは、当時周りの人から無謀だといわれたり、また「異教徒に対する誤った寛容」であると批判されました。

相手への攻撃を当たり前だとする時代背景で、自分自身が異端とされかねないリスクを背負って、フランシスコは信念をつらぬいたのです。

孤独

暗い中に一本だけ灯された蝋燭

聖フランシスコ・アシジはフランシスコ会をたちあげた人です。

フランシスコは「財産を一切持たない徹底した貧困」を厳しく主張し、弟子たちにも一切の所有物を持たずに神に仕える生活を求めました。

その頃ほかの教会では財産や土地をもつことが当たり前でしたから、まわりからは「過激すぎる」と見られ、批判をうけました。

さらに会が大きくなると「財産を持ってもいいんじゃないか」と言い出す弟子もありました。

フランシスコは内外からの圧力に苦しみ、自分の理想で立ち上げたはずのフランシスコ会の指導権を、理想とは異なるやり方をはじめた弟子たちに譲ることになりました。

彼は人生の終わりにかけて孤独を深めていき、自分の理想が果たされないことに悩み、自分を役立たずだと悔いていたといいます。

フランシスコの祈り・決意

「主よ、わたしを平和の器とならせてください。
憎しみのあるところに愛を…」

この始まりの部分は、自分はすべてをかけて神様の愛を伝えます、ということを誓っています。

神さまに対して、「わたしを何々にしてください」と願っていますが、神だのみのお願いをしているのではありません。

「器」はものを入れたり運んだりするのに役には立ちますが、同時に意思をもたない取るに足りないものとも言えます。

そんな物になりたいという事は、神さまの愛を入れたり、伝えるための役目をはたせるなら、私はどんものでもすすんでなります、という含みがあります。

神様の御心にゆだねながらも、同時に強い自分の意志表明でこの祈りは始まっています。

「…争いのあるところに赦しを、分裂のあるところに一致を、

疑いのあるところに信仰を、誤りのあるところに真理を、


絶望のあるところに希望を、闇に光を、


悲しみのあるところに喜びをもたらすものとしてください…」

この部分は、神様の愛が闇を光に変えるという素晴しさを賛美しながら、自分はその為に何もかも投げ出して役に立ちたいと言っています。

悲観せず前向きな信念が語られていますが、ここには前提として痛みがあります。

赤いハートを胸に抱えて一粒の涙をこぼす男の子のイラスト

祈り手の目には憎しみや疑いが見えています。

絶望や悲しみがあり、またそれが簡単には消えない事、繰り返されることを、祈り手は知っています。

その状況で長い間心を痛めながら、それでも神を信じ、愛を、赦しを、一致を、信仰を、真理を、希望を、光を、喜びを、積極的にさがし求めているのです。

こうした「積極的に探す」という行為は、強い意志に基づくものですが、それは同時に「神の御心に従うこと」にもつながるため、ある意味で無心でもあります。

祈り手は神にすべてをゆだね、無心でありながらも、愛と赦しの道を探し続ける決意を示しています。

御心にそって無心であろうとする祈り手には、痛みと共に喜びがあふれています。
そして自分の弱さも知っていて、この信念のまま歩かせてくださいと、神様に願っています。

フランシスコの祈り・真理

「…主よ、慰められることを求めるよりも、慰めることを求め、
理解されることよりも理解することを求め、愛されることよりも愛することを求めさせてください…」

ここから続く後半部分は、字をよむだけではちょっと難しいですが、日常的にだれでも起こりうることを扱っています。

たとえば、ふたりの人に悲しい事があったとします。

ひとりは悲しい悲しいと言って泣いています。

もう一人は、自分もかなしいけど、となりで泣いている人をなぐさめようと決めました。

その時何がおこるでしょう。

人をなぐさめようと決めた人の心には、少し安らぎが生まれます。誰かを支えるためには、悲しみに沈む自分の心をちがう方向へむける必要があるからです。

「理解」もそうです。

互いに自分の考えを主張しているだけでは、良い結果は生まれにくいでしょう。

わかってもらうことを待たず、まして力で分からせようとせず、こちらから歩み寄り相手を尊重し、意見を聞く姿勢がたいせつです。


祈り手は、相手に理解を求めるだけでなく、自分が先に相手を理解することを願っているのです。

「愛」も同じです。「こちらから愛を示すように」と祈っています。

でもこちらが愛を示し、理解を示し、優しさを示したつもりでも、現実では相手からはそれが返ってこなかったり、時にはもっとひどい対応をされることがあるでしょう。

そのために祈り手も自分の心に弱さを感じ、先に愛を示したりすることは実際にはとても難しい事だと知りながら「求めさせてください…」と願っています。

この言葉には、愛を示すことの困難さと、それを支える神の力添えを求める思いが込められているのです。

教会でそれぞれ祈る数人の人たちの後ろ姿

「わたしたちは与えることで与えられ、
赦す(ゆるす)ことで赦され、
自分を捨てることで永遠の命を得るのですから」

この最後の部分も、それまでと同じく「先にこちらから心をひらくことで、最終的には自分も得られる事がある」と述べています。

でも先ほど言ったように、現実では真心を尽くしても、逆に踏みにじられることも多く、なかなか思うようにいかないのが事実です。

では「わたしたちは与えることで与えられ…」とは、一体どういうことなのでしょうか。まるでこれは絶対的な真理であり、すべての人間がそのように「創られている」という言い方です。

先ほどの「ふたりの悲しむ人」の例に戻ってみましょう。

悲しみの原因は消えないとしても、他者を励まそうと決めた人は、その瞬間に心が悲しみから、すこし解き放たれました。誰かを励まそうとする行動が、自らの心を悲しみから少し離れた場所に導いたのです。

そしてそれに本人が気づき、世の中はそうできていたのかと知り、次に会う人にも次に会う人にも同じように慰めと励ましを与えられたらどうでしょう。

その人自身は悲しみから完全に解き放たれます。悲しみの代わりに、喜びが満ちているはずです。

仮になぐさめてあげた人から、ひどい仕打ちをうけても変わりません。

なぜなら、「神の愛による真理」に気づいているからです。

一方で最初に泣いているだけだったら、一回立ち直っても、また別の悲しみにつまづいてしまうかもしれません。

このように、現実で人間から何かが実際にかえってこなくても、神の愛の中で得られるものがある、と祈りは教えているのです。

フランシスコの祈り・赦し(ゆるし)

青い空を背景に、両手を広げて立つイエス・キリストの白い像

ここまでの話では、「赦すことで赦され、自分を捨てることで永遠の命を得る」の部分は、キリスト教徒ではない日本人には、まだ理解できないかもしれません。

誰かがわたしに何かひどい事をしたとして、わたしはその人をゆるします。
では、誰がわたしをゆるすのでしょうか?

それは神さまです。

え?そもそもどうして神様にゆるされなければいけないの?と思う人もいるかもしれません。神様はなにか怒っている存在なの?と。

いいえ、赦しとはそういうことではありません。
次にキリスト教の赦しについて見てみましょう。

キリスト教の赦し(ゆるし)とは

神様は愛そのものです。すべての人を無条件で愛し、どんな人にもその愛を注いでくださいます。

ただし神様は聖なる存在なので、罪でけがれたものとは直接結びつくことができません。

罪とは、神様の意志に背き、神が喜ばれない行いのことです。この罪は時間が経っても消えず、心から悔い改め、改めようとする意志を持ってこそ赦されるとされています。

だからこそキリスト教徒は、自分の罪を悔い改め、赦しを求めることで神様に近づき、神の愛の中に包まれることを願います。

青い空に浮かぶ地球が、半分は美しく青く、半分は枯れたように灰色にデザインされた写真

神に至る道は常にひらかれていますが、悔い改めなければ、わたしたちは神様から遠のいてしまうのです。

悔い改めて赦しを得ることで、神様との関係が回復されることを「赦された」と表現するのです。

この「赦し」は、一人一人の行いだけでなく、人間が皆もともと持っている「神から離れやすい傾向」(原罪)に対する赦しも含んでいます。
ですから、法律的に悪い事をしたかどうかなどに関わらず、キリスト教ではみなが赦しをもとめるのです。

宗教を越えるフランシスコの祈り

…わたしたちは与えることで与えられ、
赦すことで赦され、
自分を捨てることで永遠の命を得るのです…

この「わたしたち」は誰をさすのでしょうか?

全てのキリスト教徒でしょうか?

これは、「良いも悪いも全ての人」と考えることができます。

いま罪を背負っているひとも、真摯に悔い改めれば神のゆるしが得られる、そして肉体が滅びても魂が永遠に神の愛に包まれるとキリスト教では教えています。

聖フランシスコは、全ての人や生き物は神に愛されるべき存在だと信じていました。

そのため、キリスト教を信じない人にも謙虚に接し、動物にも優しく接しました。このような平等、赦し、謙虚の姿勢は、すべての「わたしたち」が理想とするものです。

聖フランシスコは特定の宗教にとらわれず、人類にとって普遍的な教えを示した聖人であり、現在も世界中で敬われています。
「フランシスコの祈り」には、その精神が表されています。

フランシスコの祈り・まとめ

赤い大きなハートと、小さいピンクのハートが、嬉しそうに寄り添っているイラスト

フランシスコの祈りとは、すべての存在に愛と敬意をもって接することを実践した、聖人フランシスコの教えを表す有名な言葉です。

宗教の枠をこえ、長年世界中のひとたちに愛され、唱えられ、引用されてきました。

この祈りの中で、彼の精神は自分が先に与え、自らをささげることを示しています。

ひどく悲しい事が起きた時、そのことだけに目をむけていると、人の心はそれにとらわれ、
おもい重荷を背負うように感じられるかもしれません。

また、聖フランシスコの時代から何百年たっても、世界はまだ苦しみや不和は絶えません。

悲しみや苦しみから抜け出せないように感じる日は、この祈りを捧げて、心に平安を求めてみてください。

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今朝、雷で目が覚めました
神社やお寺、教会などを軸に、祈りについて学びながら心の平穏を探します。このブログをきっかけに、世の中の事物にも目を向けられたらと思います。晴れた一日になりますように。
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