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初穂料に見る感謝の心

収穫間近の稲穂の写真
zaruza

神社に納めるお金は、初穂料と呼ばれます。

それは神様への特別なお供え物。

心からの感謝をそえて納めるもので、何かのサービスを神社から受けるための代金ではありません。

この記事では、お供え物が本当に初穂であった時代のことに焦点をあて、そこから人びとが初穂によせた深い感謝の心を探ります。

初穂料とは

升いっぱいに入れられた真っ白なお米と、それに添えられた稲穂

初穂料(はつほりょう)とは、神社でお祈りをするときに、感謝の気持ちを込めて神様におさめるお金のことです。

昔の日本では、農作物がとれたら最初にとれたもの(お初穂)を神様にお供えして、感謝していました。

お米を育てていない人たちは、お米でなくても最初の収穫物を同じようにお供えしたりしました。

たとえば海からとれたもの、山からとれたものをお供えして、これを「初もの」「お初穂」と呼びました。

今ではお金を使って、その気持ちを表していますが、お祭りや行事でお祈りする時に、神様へ特別な「ありがとう」の気持ちを込めて納めるお金を、今でも初穂料と呼びます。

初穂料を知る:農業のたいせつさ

なぜ海の物も山の物も、お金までも初穂と呼ぶのか、初穂がどのように特別なお供えだったかを理解するには、まず農業がいかに重要だったかを知る必要があります。

昔の日本では、米や農作物はただ「たべもの」というだけではありませんでした。

社会全体の土台となって、この国を支えていたのです。

農作物が昔の日本社会をどのように支えていたか見てみましょう。

農業を軸にしていた村のしくみ

山間の傾斜地に作られた小さな棚田に、緑の稲が植えられている

お米は平らな土地で育てます。
どこまでも平らな土地があればいいのですが、日本は山が多いのでそういう理想の場所は広くありません。


それに昔は、人をたすけてくれる便利な機械もありませんでした。

そのような条件で、効率よくお米を育てるためには、家族だけでなく村の人々が協力し合う必要がありました。

いそがしい時期には互いの家に手伝いに行き、家族だけではなく村ぐるみで農作業を行います。労力を出し合い、全体で収穫量を保つことをめざしました。

誰かに何かあって働けなくなったりすれば、自分を助けてくれる人が減って、それでは結局自分も立ちいかなくなってしまいます。

ですからもしどこかの家が不作で食べ物にこまったら、すこしずつ分けてあげたりもしました。

水資源も分け合いました。

この助け合う関係は「結い」などと呼ばれ、人びとの生活をささえる仕組みとなりました。
これを生み出したのが農業です。

みんなで育て、みんなで収穫、そしてみんなで祝う

着物に菅笠姿で、女性たちが並んで田植えをしている

春の田植え、秋の収穫など、農業はすべて季節にあわせて行われます。

農作業の節目では、村の人たちは神社への奉納やお祭りといった年中行事を行いました。
そこでは神さまに感謝し、お互いに感謝し、みんなで協力して生きているのだという認識を確かめ合います。

農作業にあわせて行われる行事をつうじて、村全体のきずなが深まっていったのです。

お米の収穫量は、日本経済そのもの

田んぼの中に、刈り取られた稲が何列も天日干しされている

昔、税金は年貢と言ってお米で払われることが多くありました。

もしお米がたくさん実れば、年貢をおさめる方も受け取る方も安心です。
でももし不作だったら、年貢を出す方も受け取る方も困ってしまいます。

お米がないということは、食べ物がないというだけでなく、今に置きかえると「お金もない」というのに同じでした。

経済が安定するかどうかのカギを、農業がにぎっていたのです。

米が結ぶ「領主と農民」の関係

まだ青い稲に、まだ若い穂が順調についている


お米は農民だけだなく、武士や領主にとっても生活の基盤でした。

年貢米は領主の収入でもありました。

領内が豊作なら、農民は年貢をしっかり納めることができるので、領主自身も安心して暮らせます。
ですから領主は農民が安定して収穫を得られるように努めました。

お米、農業は、農民と領主をたがいに支え合う関係で結んでいました。

以上のように、お米は単なる食物にとどまらず、日本全体の経済と社会構造を支える要となっていたのです。

初穂料を知る:飢饉(ききん)の悲惨さ

夕日が辺りをオレンジ色に染める中、一本の縮れた草の穂が斜めにたよりなく立っている
  • いくら人間が協力し合っても、あっという間に収穫を失ってしまうことがありました。
  • 雨が降らない、あるいは降りすぎる、暑い寒い、大風が吹くなど、天候が悪ければ苗が育たなかったり、収穫間近で作物がだめになってしまったりします。

作物がとれないということは、その年だけちょっとガマンして、来年作物がとれれば元通り、というわけではないのです。

作物が思うようにとれないとどうなるのか、つぎに凶作や飢饉について見てみましょう。

1.享保の大飢饉(きょうほの だいききん)

1732年、西日本を中心にひどい干ばつが起こり、その後イナゴが大量発生したために、米や作物がたいへんな被害を受けました。

とくに瀬戸内海の地域では、メインの作物だった米がほぼ全滅となりました。

今のように支援物資を飛行機やトラックで届けてもらえることのない時代です。

パンや、日持ちのする缶詰や、冷蔵庫や、そんなものもない時代です。

ちょっと元気がなくなったからと言って、すぐにいい薬が飲めることもなかった時代です。

数年にわたって、人びとは深刻な打撃を受けました。


農作物が収穫できない中、人びとは飢えに苦しみました。

瀬戸内地方は、農村の住民が次々とよそへ移住しなければならない状況に追い込まれました。

人が減り、生活がいっそう苦しくなり、農村は崩壊します。
村の共同体そのものが崩れていきました。

このように飢饉はただの収穫不足にとどまらず、地域社会の根底を揺るがす一大事でした。


こうなると、幕府も農村再建のために様々な改革を行います。この時は将軍(徳川吉宗)が積極的に対応しました。

それでも、飢饉はひとたび起きれば、長期にわたって国全体に大きな影響を及ぼすことになったのです。

2. 天明の大飢饉(てんめいの だいききん)


天明の大飢饉(1782~1787)では、数年にわたって繰り返された冷夏と浅間山の噴火が引き金となり、東北から関東を中心に全国的な米の凶作を招きました。

冷害で稲が育たないため、ほとんど収穫が見込めず、家計や生活を米に頼っていた農民は致命的な打撃をうけました。

それに、火山が噴火したという事は、火山灰がひろい地域に降り積もったということです。こうなると、その土地で作物を作るのは困難になります。


飢えをしのぐために木の皮や草を食べたり、さらには土までを食べて飢えをしのいだ、という記録も残っています。


この飢饉では、東北地方を中心に数十万人ともいわれる餓死者が出ました。

数十万という数は、たとえば今の日本で、札幌市や仙台市といった大都市の全人口がほぼ消えてしまうほどの数に相当します。

町や村が次々と人を失い、ある地域では家族全員が飢え死にする、そういった凄まじい数です。

こうした食糧不足は、日本に計り知れない傷跡を残しました。

農村からの食糧供給がスムーズでなくなると、都市部では物価がいっきょに跳ね上がりました。

更にこの時は幕府の対応が遅れ、享保の大飢饉よりももっと被害が大きくなりました。

町民や貧しい労働者たちは打ち壊しと呼ばれる騒動を起こし、米の買い占めを行う豪商や、米を確保していた裕福な家を襲いました。

世の中が物騒になれば、不安がのしかかり、誰もかれも平気と言うわけにいかなくなります。

飢饉が経済的な格差を浮き彫りにし、社会不満を噴出させました。

幕府に対する信頼が揺らぐ一因となったのです。

3. 連鎖の恐怖

いずれの大飢饉でも、多くの農民が村を捨てて流民となってしまいました。

村の共同体が消えていきました。

農業は共同作業が不可欠であるので、住民が流出すれば収穫がもっと減少し、飢餓が連鎖しはじめます。

飢饉が長期化してしまうと、隣人と助け合う余裕もなくなり、これまで強く結ばれていた地域共同体のつながりが断ち切られ、きずなは弱まっていきました。

「助け合いの文化」がもはや機能しない、それは厳しすぎる現実でした。

初穂は感謝と祈りの結晶

飢饉や災害がたて続けにおこった過酷な状況で、人びとは祈りに心の安寧をもとめました。

日本は自然崇拝ですから、天候の行方、海や山のめぐみを神様にお願いするのは大昔から当たり前の事でしたが、それをもっと強く共同体で認識しました。

初穂の奉納は、それを得られたことの感謝のしるし、そして次の収穫までの平穏を見守ってくださいと、心の底から神さまに向ける願いの形なのです。

神社参拝での「感謝」の精神は、現代にいたるまで根付いていて、共同体での祭りでも、夜店で個々人が遊ぶだけでなく、自治会総出で準備をしたり、かつて助け合って生きていた頃からの流れが残っています。

神事の朝、揃いの着物を着た20人以上の男性が、神社の参道脇に整列して、一斉に本殿の方を見ている

今それだけで、有り難いこと

現代では、生活必需品はかんたんに手に入り、食べ物に困ることも少なくなりました。

こうした便利さは私たちに「何かが不足している」と感じることを減らし、生活におけるありがたみを実感する機会を少なくしています。

そのため、神社は「何かをお願いする場所」として考えられることが増えました。

でももともと、日本人が長いあいだ受け継いできた参拝のかたちは、まず最初に感謝でした。

「とにかく、今ここに、こうして生きていられるだけでありがたい、ここまで自然のめぐみをいただけたこと、仲間がいたことがありがたい」

この「ありがとう」という思いを届けに行くのが神社参拝の第一です。

そしてその次に「この恵みを失わないように、今この先を神さまにたくす」という願いがあるのです。

現代、感覚の変化

現代は田植えからはじめ、雨や日照りを心配しながら、みんなで食べ物を得ていた頃とはちがいます。

各自バラバラにお金を得ていて、財布の中身はお隣同士まったく異なり、財力があれば他人の手助けがなくてもどんなものも簡単に入手でき、ネットなどでは他人の暮らしぶりを伺い見ることができてしまう時代です。

お金がなければ、(あるいはないと感じてしまえば)とたんに心に暗雲が立ち込め、他人の裕福さに心がマヒし、自分が幸せであることが見えなくなったりします。

色とりどりの看板がひしめく、華やかな渋谷の白昼の繁華街

そんな現代では「ガチャ」というような言葉で、自分の境遇を他人と比較し、「自分だけが貧乏くじを引いた」と感じる人が増えているように思えます。

みなで稲を育てて糧を得るプロセスがないので、なぜあの人は裕福で自分はそうでないのか、まるでお金は他人にだけ不公平に湧いて出ているように感じ、くやしさ、怒りが心を揺さぶります。

現代は昔よりずっと暮らしが安定しているのに、自分の状況に対する不満や諦めが増幅され、心を病む人が増えたり、犯罪にたやすく手を染める若者が増えている面がないでしょうか。

私たちは、強いきずなをもともと持っていた過去のある人たちです。

最近また「つながり」「絆」という言葉をよく聞くようになりました。それは、災害多く、何かと心揺さぶられるこの時代に、もう一度忘れていたものを思い出そうという声に聞こえます。

現代の初穂料

七五三で着飾った女の子と男の子が、それぞれパパとママに手を引かれている

現代では、結婚式、七五三、厄除け、安産祈願など、正式に祈祷や祈願をする時に初穂料を納めます。

神社へ行ったとき、普段は気軽に自分の任意の額で「お賽銭」をいれるでしょう。

でもここまで見てきたとおり、「初穂料」はここまで生きてこれたこと、収穫の喜びと感謝、そして真剣な未来への願いをこめるものです。

ここぞと言う時の、特別なお供え物なのです。

ですから今自分にできる、ある程度の金額を前もって用意し、きれいに包むのが理想です。

初穂料・まとめ

初穂料とは、感謝をそえて神社に納めるお金です。

何かのサービスをもらうための代金ではなく、今まで生きてこられたことへの謙虚な感謝を表し、未来へ希望をたくす特別なお供え物なのです。

人とのつながりが見えにくくなった現代ですが、「初穂料」という言葉の中には、みんなで生きてきた私たちの歴史がのこっています。

ひと房の穂、一粒の穀物、それが得られた感謝、未来もそうありたいと願う気持ち、

「初穂」は私たちのきずなを教えてくれています。

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神社やお寺、教会などを軸に、祈りについて学びながら心の平穏を探します。このブログをきっかけに、世の中の事物にも目を向けられたらと思います。晴れた一日になりますように。
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