神社の小さな社
神社に行くと、立派なご本殿とちがう場所に、ひっそりと鎮座するちいさな社(やしろ)に気づくことがありませんか?
参拝者がお参りを済ませてお守りをいただいて、さあ帰ろうとする時に、目の端にちんまり映る、小さな社。
ああ、近所の神社にもそういえばいくつかそんな小さな社があったみたい、でもあれなんだかよくわからないと思う方へ。
この記事はそんな、神社の小さな社にまつわるお話です。
神社の小さな社は何?
あの小さな社は、境内のただの飾りではありません。
道具をしまってある小屋などでもありません。
ひとつひとつに、八百万(やおよろず)の神様が鎮座しています。
あの小さな社は、神様をまつってある建物なのです。
神道では、神社ごとに祭神が異なるから、参拝者がそこでまつられる本殿の主祭神を把握していないまま、神社へ参拝することも珍しくありません。
神様がどなたかは存じ上げないけれど、とりあえずまっすぐ一番立派な建物へむかって進み、前へならえで手をたたいてごあいさつし、お願い事をしたりして。(いえいえ、もちろん、そうでない参拝の方も多いですね)
メインの神様がどなたかも把握していないのに、それ以外に小さな何かがひっそりと祀られているのは、意味がよくわからないので、あれは関係ないのだと、なかった事にして去ってしまう参拝者もあるかもしれません。
人によっては、関わらない方がよいと、すこし恐れを感じるかもしれません。
それは、たとえば小さいころ友だちの家にお邪魔して、よく知らないその家の家族と会う感覚に似ていませんか?
それが誰なのかわかれば、ドギマギしながらもあいさつはします。
むこうから歓迎のようすがはっきり出ていれば、安心して「こんにちは。おじゃまします!」と、もっとしっかりあいさつできます。
でも、あそんでいる最中に、庭先でびみょうに誰だかわからない人にあったら?
トイレをかりるとき、急にその家のおじいちゃんと出くわしたら?
その人たちがにこりともせず、目が合うだけだったら、びっくりしてあいさつできないかもしれません。
よくわからないから、互いの橋がかけられない。
神社の小さな社と、多くの参拝者の出会いは、こんな感じです。
すこし残念なことです。
まず始めに、あのちいさなお社たちは、あやしいものでもなく道具小屋なんかでもなく、無数の神様たちの、ちゃんとした場所であることを知っておきましょう。
神様はおひとりじゃない。八百万の日本の神様
この地球には、いろいろな形で神様を信じるひとがいます。
神様は、何人もいる場合と、一人の場合があります。
「一人」というのは、「それ以外の数」と共存する概念なので、そもそも「一人」という考え自体持たない信仰もあります。
キリスト教では、唯一の神が父・子・聖霊の三位一体として信仰されています。
キリスト教の人にとって、自分たちのまわりの世界は、すべてそのただ一人の神様が創られたものです。
人間はそれを大切にし、管理する責任がありますが、自然そのものを神様とは考えません。
イスラム教の人は、唯一神アッラーを信仰しています。
一方で、日本神道の神様は何人もいて、たいへんにぎやかです。
ざっくり言えば、日本では何でもかんでも神様になります。人間が何かこれはと思えば、それが神様になります。
石でも木でも神様になります。空で雷が鳴れば、それも神様です。
亡くなったご先祖も神様です。
お客様は神様と言いますが、あれも迎える側の心の持ちように関わるという点で、神様に通じるものがあるかもしれません。
日本では、私たちをつつむあらゆる自然が、すべて神様になります。
自然崇拝と言って、自然そのものが神様なのです。
日本は自然がすばらしく豊かです。
木の種類は多いし、動物も虫も種類がおおい、水もこんこんと流れてさまざまな姿をみせるし、海も山もすぐ近くにあります。
四季は鮮やかにかわるし、変わるたびに恵みをくれたり、あるいはくれなかったりします。
この中で自然を崇拝しながら生きていると、神様だらけです。
今も、神様は日々増えています。
多すぎてもう正確な数はわからないから、「とにかくいっぱい!」という意味で、日本の神様は「八百万(やおよろず)」と言うのです。
小さな社は地域密着
このように、日本は神様が無数にいます。
この神様たちの、鎮座する場所のひとつが、神社のあの小さなお社です。
神社の小さな社は、「摂社(せっしゃ)」「末社(まっしゃ)」と呼ばれます。
神様はいっぱいいて、どの神様もいっしょにお祀りするわけにはいきませんから、こちらの神様はご本殿に、そちらの神様はそちらの社に、と分けられているのです。
八百万でみんな違う神様ですから、お考えも神力もそれぞれとされます。
神様どうしの相性もあるようです。
相性があるなら、一緒にまつられたり、逆にちょっとばかり離して分けて祀られたりするのは、とても自然なことです。
小さな社は神社以外にも、そこかしこに沢山あります。
普通の家の庭先にもあります。
ビルの屋上にもあります。
家庭にある小さな社は、「ほこら」とか、「まつりやしろ」と呼ばれ、家の守りや繁栄、家族の健康を願うために、地域や家の守り神が祀られています。
農家なら、豊作を願うために、よく稲荷神がまつられます。
家族や個人の信仰によって、祖先の霊をまつることもあります。
新築の際や、なにか商売をはじめるための土地を買う時に、その土地を守る神様に感謝し、土地の神さまを祀るために祠(ほこら)がおかれることもあります。
その場所に縁のある、むかしの人物がまつられることもあります。
神話や、伝説、不思議なできごとに関するものがまつられることもあります。
木だの、岩だの、そういった自然の物がまつられることもあります。
他にも、山神、水神、雷神、風神…、挙げればきりがないほど、その地域にとって特別な意味をもつ、多くの自然現象がまつられます。
まつりにまつって、日本の神様はほんとうににぎやか。
こうしてあちこちに小さな社ができました。
いたるところにある小さな社の神様は、そのそばに暮らす人たちの、思いや願いを反映しているのです。
小さな社を建てたい時には?
では、誰でもかんたんに、自由に社を建てていいのでしょうか。
自分で勝手に社を作って、なかに神様がほんとうにちゃんと鎮座してくださるのでしょうか?
家庭などに小さな社を設けることに関して、特に法律的な認可や規制はありません。
個人で自由に設置することができます。
ただ、正式に神様をお迎えするには、神主(かんぬし)にお願いして「地鎮祭」や「開眼式」などの儀式を行うのが良いです。
折り目正しい儀式で、神主さんは土地を清め、神様に祠を設けることを報告し、祝福を祈ってくれます。
また、特定の神様をまつりたい場合や、地域の神社とつよく関わるときなどは、地元の神社からの指導を受けることがあるかもしれません。
例えば、稲荷神社の分霊を祀りたい場合は、稲荷神社の神主に相談して正式な手続きを行うことが望まれます。
小さな社をお家などに作りたい場合、許可などは要らないのですが、地元の神社に相談するのはよい事でしょう。
本殿の神様と、小さな社の神様
神社境内の、小さな社に話をもどしましょう。
八百万で神様がみんな違うのはわかりましたが、立派な本殿と小さな社では、見るからに差がありますよね。
本殿の主祭神と、小さな社の神様は、どっちが偉いとか、えらくないとかの区別があるのでしょうか?
小さな社にまつられるのは、どのような神様なのか、本殿の神様と比べながら見てみましょう。
1.格の違い
神道では、神様同士に「格(ステータス)」の違いがあるとされます。
本殿には主祭神がまつられます。
主祭神は、その神社自体がそこに建てられた理由に深く関係していて、摂社・末社に祀られる神さまよりも、格上とされることが一般的です。
天照大神、大国主命、素戔嗚尊、八幡神、稲荷神(あまてらす おおみかみ、おおくにぬしの みこと、すさのおの みこと、やはたの かみ、いなりの かみ)など、天皇に直接関係していたり、日本の歴史的な神話に深く関わる神さまがこれにあたります。
これらの神様は、地域や日本の守り神として、多くは神社の中心になります。
いっぽう、摂社にまつられる神様は、主祭神の家族だったり、とても縁のふかい神さまだったりします。このために摂社の重要度は高めです。
末社のほうは、地域や一族の神、土地神や自然神、なにかの願い事に関係する神様など、主祭神とあまり関係は濃くない神様をまつる場合もあります。
この場合、末社の神さまの格はやや低いとされることもあるようです。
ですが、本殿の神さまと摂社・末社の神さまは格が違うと言っても、それぞれが神社の全体的な信仰体系を支えていますから、すべて重要な存在です。
2.役割のちがい
たとえば、愛媛県にある大山祇神社(おおやまづみ じんじゃ)の主祭神は、大山祇神(おおやまづみの かみ)です。
おおやまづみのかみは山岳信仰に関連し、摂社や末社に祀られることが多いのですが、このおおやまづみ神社では全国の山の神々の総元締めとされ、主祭神になっています。
木花咲耶姫命(このはなさくやひめの みこと)は富士山信仰、桜の花や火の神として知られる神さまです。
この神さまは静岡県の浅間神社では主祭神ですが、摂社や末社で祀られることも多いです。
大宮売命(おおみやのめの みこと)は、宮殿の守り神で、神社の管理や運営をまもる神様としてあちこちの摂社や末社に祀られることが多いですが、福井県の大宮神社では、この神様が主祭神です。
このように、どの神様は主祭神にはならないということはなく、その土地、そこの人たちが何を信仰しているかによって、本殿にまつられたり、摂社・末社にまつられたりします。
そこの土地の人たちにとって、大切だとおもわれる役割をもつ神様を中心として(つまり主祭神として)、この神様をおまつりする神社ができるのです。
神社の運営を守る役割りをもつ神さまが、本殿のそばにある摂社や末社にまつられることが多いと言うのは、わかりやすい例ですね。
3.鎮魂
中には、鎮魂が必要な神様もいます。
参拝していて、ちょっと怖いと感じる小さな社は、もしかしたらこのような神様が鎮座しているかもしれません。
怖いと言うのは、怖い神様がいるという事ではなく、そこに「鎮魂」とか、具体的な人名とかが書いてあったりするので、ちょっとドキリとするかもしれないという事です。
「何かあるかもしれないけど、わたしよくわかっていません。
今日は新年の初詣ということで神社に来たのだし、小さな社を見つけちゃったけど、作法もいまいちわからないので、関係ないという事にしていいですか」という感覚。
最初に言った、友達の家で楽しく遊んでいたら、庭先でその家の知らない人といきなり目が合っちゃった感じです。
「鎮魂」と言うのは、霊をなぐさめることです。
たとえば、戦没者をまつってあるのは鎮魂の社です。
戦争に行って亡くなった人たちには、「あなたの犠牲は無駄ではありませんでした。あなた方を忘れず、ずっと敬います」と祈ることが鎮魂です。
戦争に行った人たちだけではありません。
神道では、死者の霊を鎮めることが重要とされているので、つらい死をとげた歴史上の人物を祀ることもあります。
この場合は慰めるほかに、どうか怨霊にならないでください、という願いもあります。
崇徳天皇(すとく てんのう)は人生でいろいろ苦しみ、怨霊となったと言われます。
このために、怨霊信仰が広まった時代には、人びとは恐れから各地の神社に、摂社や末社としてこの天皇をお祀りしました。
このような鎮魂が必要とされる人たちと、つぎに紹介する記念のような人たちには、「神格」を与えて神様と同等と考えることがよくあります。
ですからこの記事では、このような人たちも神様と呼びますが、神格がないままその御霊をうやまい、特別な存在として祀られていることもあります。
4.記念として
楠木正成(くすのき まさしげ)はとても強い武将でした。
すばらしい忠義の人として敬われているため、その勇名を伝えるために末社に祀られることがあります。
こんなふうに、立派なひとが小さな社にまつられたりもします。
神社の小さな社、まとめ
八百万の神様がいる日本では、神社の中にも外にも沢山の神様がいらっしゃって、そのより所として無数の小さな社がたてられています。
神社参拝のときは、手水舎で手と口を清めたあと、まず主祭神のもとへ向かい丁寧に参拝しましょう。そして時間があれば、小さな社の神様たちのところへも参拝してはいかがでしょうか。
そしてもっと時間があれば、さいごにもう一度主祭神に参拝し、かさねて感謝を示します。
時間をかけ神域をまわれば、神社ぜんたいの神々に私たちの真っ直ぐな敬意が、きっとより強く伝わるでしょう。
※当ブログは、管理人が自身の調査と個人的な思考を交えて書いております。記事の内容に誤りや不適切な表現が含まれている場合もございますが、その際はご容赦いただけますと幸いです。当ブログはあらゆる信仰や生き方を尊重し、すべての方の心に寄り添うことを大切にしています。どなたも軽んじたり排除したりする意図はありません。