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春の七草の意味

春の七草がちいさな籠に入れられている。となりには七草粥もある。
zaruza

『君がため 春の野に出でて 若菜つむ 我が衣手に 雪は降りつつ』※1


(あなたにさし上げるために、早春の野に出て芽吹いたばかりの若菜を探しています。
すると手をのばす私の袖には、冷たい雪が静かに降りかかっているのです)



冬枯れた野に、春の兆しのように小さな緑が顔をのぞかせる。
大切な誰かのために、かがみ込んでそれを摘む詠み手の袖には、
空から冬のなごりの雪が舞いおちてくる。

人のやさしさと、冬から春への移り変わりが表現されたこの和歌は、古代の若菜摘みの風習を光孝天皇が詠んだものです。

この記事では、春の七草に込められた祈りの意味を探り、七草がゆが正月明けの単なる健康食でない事についても考えていきます。

春の七草の紹介

七草・おぼえ方

春の七草に使われる植物をそらですぐ言えますか?
とてもいい覚え方がありますから、ご紹介しましょう。

「せり なずな、ごぎょう はこべら ほとけのざ、すずな すずしろ、これぞ七くさ」※2

これは、春の七草を覚えやすくするために、五・七・五・七・七のリズムに乗せて詠まれた句です。
声に出して数回言ってみてください。
かなりすんなり七つの草の名が頭に入ってくると思います。

さて、これらの植物ですが、今の呼び名に変えると次のようになります。
「セリ、ナズナ、ハハコグサ、ハコベ、コオニタビラコ、カブ、ダイコン」

時代や地方によっては異なる組み合わせを「七草」と呼ぶこともありますが、現代で「春の七草」と言えば大抵はこの組み合わせです。

セリは、春先になるとスーパーで見かけますし、カブやダイコンは一年を通して台所にある食材です。
一方で、ナズナ、ハハコグサ、ハコベ、コオニタビラコは、その辺の野に生えている植物です。

これらの草が、春の七草として特別な名前で呼ばれるのは、人々の願いや信心が込められているためです。

次に、一つ一つの草について詳しく見てみましょう。

名前が変化している部分には、特別な意味や願いが込められています。ぜひ注目してみてください。

七草・それぞれの名前と願い

セリ

「セリ」という名前は、草が競り合うように群生する様子に由来します。

競争に打ち勝つ力を象徴し、稲作に欠かせない水源の目印として田の神に供えられる草です。

ざるに芹が置いてある

早春の、若いところを摘んでいただきます。


ナズナ(ペンペン草)

ナズナは、「撫でる菜」という名前に、体を撫でて穢れを祓うという意味が込められています。
その変わった形の種子が、神事の御幣(ごへい)に似ているとされることもあり、邪気払いの草として七草に入っています。

ペンペン草

みなさんも子供の頃この草をとって、くるくる回して遊んだりしたのではないでしょうか。


ゴギョウ(ハハコグサ)

ハハコグサ。黄色い花が咲いている。

ハハコグサは丸く広がる形が仏さまのお姿そのもの(御形・みかたち)に似ているとされます。


ハコベ(ハコベラ)

ハコベの白い花

ハコベは冬でも生えている元気な草です。よくはびこるので、繁栄や五穀豊穣の願いがよせられます。

「ハコベラ」とリズムよくかわいらしく名前を変え、七草に選ばれています。
幸福を運んでくる草ともされます。


ホトケノザ(コオニタビラコ)

コオニタビラコは、地面に広がる葉っぱの形状が、仏さまがお座りになる蓮華座に似ているとされます。

コオニタビラコと先ほどのハハコグサは仏さまの加護をねがって「御形(ごぎょう)、仏の座」と名前を変え、七草に加えられています。

これらも、早春の芽吹いたばかりの状態でいただきます。

コオニタビラコ。黄色い花が咲いている。

スズナ(カブ)…これは通常畑で育てたものをいただきます。カブは神聖な音を出す鈴に似ているので、スズナと名前を変えて七草に登場します。

「ナ」は食べられるもの、「菜」です。
神聖な音で邪気を払い、神さまの加護をねがう思いが込められています。

三つのカブ

スズシロ(ダイコン)…通常畑で育てたものをいただきます。スズシロという呼び名は、これも白い鈴を表します。
ダイコンは長くて鈴に似ていませんが、その白さは食べ物の中で格別です。

神道で白は最高の清浄さを表します。ダイコンは清らかな白い鈴に見立てられ、神事の供物に使われます。


以上のように、春の七草は特別な物ではなく、その辺に自生していたり、普段から台所にあるような植物です。

身近な植物たちが、それぞれ願いをこめられた美しい名前を与えられ、冬が終わりいのちが再生する新年の時に、神聖な力をもつ春の七草として登場するのです。


七草がゆとは

椀に入れられた七草がゆを、さじですくっている。湯気がたっておいしそう。

日本では、毎年1月7日に七草を粥にして食べる風習があります。
これは人日の節句(じんじつの せっく)と呼ばれ、新しい年を迎え、七草の力で無病息災を祈るものです。

この七草がゆの風習は、もともと古代の「若菜摘み」という行事が起源とされています。
春の初めに芽吹いた若菜を摘み取り、それを神さまに供えたり、家族に食べさせたりしました。
こうして、大地の生命力にあやかり、健康を願う行為が、古代から日本で大切にされてきたのです。

やがて、中国から「七種菜羹(しちしゅさいこう)」という風習が伝わります。人日という言葉もこの時に伝わりました。

これは、七つの野菜を使ったスープを立春に食べて無病息災を願うという習慣で、10世紀頃に盛んになったものです。

この中国の風習が日本の若菜摘みと結びつき、正月7日に七草がゆを食べる文化が生まれました。

現代では、年末年始のごちそうで疲れた胃腸を休める健康食とされることが多いですが、古い時代には芽吹いたばかりの若菜の生命力を体に取り入れ、神さまの恵みに感謝するための祈りの食事でした。

冒頭の和歌が詠まれた平安時代の若菜摘みも、七草がゆの直接的なルーツとされています。

しかし、この和歌で天皇が雪の中、思いやった「君」は、年末年始に暴飲暴食をした「君」ではありません。

普段とちがうハレの日の祝い膳などで、胃腸が疲れがちな季節であることはうかがえますが、どちらかと言えば「神の加護で力をつけてほしい大切な人」への祈りを込めたものだったはずです。

人と食べ物と願いの関係

食べるとはどういうこと?

私たち人間は、動植物など自分以外の有機体を摂取しなければ、生命を維持できないようになっています。
「食べる」とは、私たちが生きるために欠かせない行為です。でも、それは単なる栄養補給以上の意味を持っています。

人間にとって食べ物との関係は、ただ車のタンクとガソリンのようなものではありません。

食べ物は私たちに幸福感をもたらし、感謝を学ばせ、時に争いの元となり、あるいは人と人を強く結びつけ、じつに様々な役割を担ってくれています。


幼い頃に駄菓子屋で頬張った飴玉や、海辺でおなかをすかせて食べたおにぎりなど、食べ物は思い出とともに心に刻まれているでしょう。

また、悲しい時に食べた物の味を、今でも甘く苦く思い出すことがあるかもしれません。

食べ物は、単に体を動かすためのエネルギーではなく、私たちの感情と深く関わっているのです。
古代から人々は、食べ物に願いを託し、祈りを込めてきました。

祈りを託される食べ物

そんなですから、食べ物の中には、特定の願いや祈りを託されてきたものが少なくありません。

キリスト教では、パンとワインがイエス・キリストの体と血を象徴し、聖なる食べ物として祈りとともにいただかれます。

赤ワインが入ったグラスとパン

多くのアジア諸国では、お米が神聖な食べ物として大切にされてきました。これは、米が豊穣を象徴し、人々の生活を支える主食であるためです。

日本でも、お正月に鏡餅をお供えし、無病息災や繁栄を願います。

中国では、長寿を願って長い麺をいただき、韓国では新しい年を祝って「トックク」という餅入りスープをいただきます。
これには、長寿と新たな年齢を重ねる意味が込められています。

人々は、食べ物を自分の中に取り込むことで、そこに託した願いをかなえようとし、また願いを込めた食べ物を誰かに捧げることで、真心を伝えてきました。

食べ物は、人と人、人と大地、人と神さまを結ぶ架け橋です。
そして、この記事で紹介する七草がゆも、そんな願いを込めた食べ物のひとつです。

七草に込められた祈りは、長い時を超えて、現代にも引き継がれています。
大切な人が健康であってほしい。今年も幸せでありますように──
七草は、その思いを静かに引き受けて、私たちの食卓に届いているのです。

春の七草の意味・まとめ

ざるに置かれた春の七草。それぞれに名前が振られている。

正月7日の七草は、古くから人々が無病息災を願っていただいてきた伝統の食べものです。

それぞれの草には願いが込められ、現代では胃腸を休ませる健康食として、古代では新たな活力を得るための食事として親しまれてきました。

今は店頭に七草パックが並ぶ時代ですから、太陽暦の1月に、実際に雪の中を歩いて七つの野草を探す人は少ないでしょう。

けれども、七草を手に取る時の「健康を願う気持ち」は、千年以上前の光孝天皇の時代と変わらないはずです。

それぞれが誰か大切な「君」を思い浮かべ、今日は七草にしようかと迷う。

七草がゆにとって大切なのは、特別な味付けや、七種すべての野菜をそろえることではありません。
何よりも、作るときに「心を込めること」が大切です。

供される側も、お粥を味気ないと思わず、「なぜ七草がゆを自分のために作ってくれたのか」に心をとめてみましょう。


あなたは誰かにとって大切な「君」なのです。

ありあわせの野菜でかまいません。
つくる人は大切な人の健康を願い、トントンと楽しく菜っ葉を刻む。

そして、その思いを受け取った人が「自分は大切な存在なのだ」と気づく──

七草を囲む人の心がこのようであれば、はかなく見える七つの若菜も、時を超えてその力を呼び覚まし、祈りを運ぶ七つの薬草としての役割を果たしてくれるのです。

あなたが独りであっても、春のめぐみは同じように芽吹いてそこにあります。


春の七草に託されたこの意味を知る事、これこそが本質であり

これぞ七草なのです。

資料

※1 古今和歌集,巻一 春歌上 ,光孝天皇

※2 四辻善成『河海抄』,作者不詳

※当ブログは、管理人が自身の調査と個人的な思考を交えて書いております。記事の内容に誤りや不適切な表現が含まれている場合もございますが、その際はご容赦いただけますと幸いです。また、この記事で使用している写真はイメージです。野草を摘むときは間違ったものを摘まないよう十分お気を付けください。

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今朝、雷で目が覚めました
神社やお寺、教会などを軸に、祈りについて学びながら心の平穏を探します。このブログをきっかけに、世の中の事物にも目を向けられたらと思います。晴れた一日になりますように。
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