クリスマスの過ごし方:最高の贈り物と共に
毎年クリスマスが近づいてくると、今年はどうやって過ごそうかと、楽しさや期待に胸がふくらみます。
ですが、街のイルミネーションが輝きを増す中で、心の中が暗く感じる人もいるかもしれません。恋人や家族がいないことで、その輝きがまるで自分だけには与えられない別世界のように思えて、虚しさを覚えたり、大きな何かを失った気持ちになる人もいるでしょう。
お財布にお金が足りないと思うと、「お前から楽しいクリスマスを奪うぞ」と、心の中で奇妙なささやき声を聞いてしまうこともあるかもしれません。
歳末のこの時期は、人びとの心に「足りない」ものが多く感じられる時期です。
お金がない、家族がない、子どもがない、友達がいない、恋人がいない、休みがない、贈り物がない…、自分は祝福にはふさわしくない人間なのではないかと。
「なんとかして無いものを埋められないか、奪ってでも揃えたい」と、心のささやきにのまれて犯罪に手を染める人まで現れてしまいます。
なぜこのようなことが起きてしまうのでしょうか。クリスマスは誰もが幸せを感じ取れるはずの日であるのに。
この記事では、私たちに本当にないと気づくべきものは何なのか、本当はすでに持っているものは何なのかを考えてみます。
クリスマス事情
クリスマスは本来、『愛』や『希望』を祝う日です。けれども、いつの間にか『何かを手に入れなければならない日』と思い込んでしまうと、逆に虚しさや焦燥感を抱えてしまうことがあります。
私たちを取り巻く現代のクリスマス事情は、どのようにしてそのような感情を生み出しているのでしょうか。
一緒に考えてみましょう。
クリスマスの理想像?
クリスマスが近づくと、メディアや広告は「恋人同士の特別な時間」や「華やかなプレゼント交換」など、理想的なイメージを押し出します。
ラジオやテレビの話題も、「自分は子供とどう過ごすか」といったアットホームな話題が声高に取り上げられ、一方で「独りだ」というタレントは、自虐的にそれを楽しげに語ったりします。
これは、経済的な余裕がない人や、特定の人間関係がない人にとって、「自分は不完全だ」という気持ちを生み出す原因になっているかもしれません。
さらに、作り出される理想像から遠く、アットホームな状況を持たない人々は、多くの場合、声を上げることもなく、ただ情報を受け取っているだけです。
たいていの人は、ただ時が過ぎるのをやり過ごすだけですが、やがてクリスマスに無感動になるまで、毎年心に小さな傷をつけるようなプレッシャーとなってしまうことがあります。
特に経験の浅い若い世代にとっては、理想的でない人が実際には多くいることを知らず、焦りや劣等感を感じ、不必要に傷ついてしまうかもしれません。
消費主義が生み出すこの理想像は、クリスマスの過ごし方が、そのまま「多くのお金を持つ人」「家族や仲間に囲まれた人」という、いわゆる「成功者」かどうかを分ける指標になってしまっているのです。
しかし、クリスマスの過ごし方に、誰にでも当てはまる理想などはありません。
好きな本をじっくり読むこと。
いつもの仕事帰りに、今日は温かい缶コーヒーを買って胸元に忍ばせてみること。
そんなささやかなことが、実はとても素晴らしい時間になるのです。
SNSが見せる、作られた世界
SNSは、他人の「幸せそうな瞬間」だけが目に入る媒体です。
クリスマスの時期には特に、カップルや家族の投稿が多くなり、それを見て自分の生活と比較し、孤独感や虚しさを感じる人が増えます。
美しいものだけを見て楽しめれば良いのですが、開くたびに自分にはないものを見つけてしまい、無意識に自分と他人を比較してしまう恐れがあります。だけど、それは無駄な比較です。
SNSに載っているのは、誰かが選んだ理想化された瞬間に過ぎません。その裏側には、努力や苦労、時には悩みが隠されているかもしれませんが、それは見えないのです。
一方で、たとえば、あいさつをしてくれる隣人や、職場で少し会話が弾む同僚。そんな日常のふとした交流こそが、現実に心を温めてくれるものです。
ごちそうではないかもしれませんが、目の前の食事は確実にお腹を満たしてくれます。履き慣れた靴はくたびれていても、今の自分をしっかり支えてくれています。
リアルな世界に心を向けてみましょう。そこには、真偽のわからないSNSの世界よりも、確かで温かなつながりがきっと見つかるはずです。
個人主義・多様性と共感力
近年、自分の個性や主張を大切にする風潮が高まっています。
それはグローバル化した現代において非常に発展的なことですが、時に「自分さえよければいい」という考えが優先され、他者を思いやる気持ちが後回しにされることもあります。
特に経済的困窮や孤独感が強い状況では、犯罪や反社会的な行動に至るケースも見られます。
クリスマスという「愛と希望」の日に、逆に争いや悲しい出来事が起こるのは、私たちが大切にしたい価値観と矛盾していると言えるでしょう。
日本では古くから、他者を思いやる「道徳」を重んじる文化がありました。
道徳心とは決して難しいものではなく、小さな親切や礼儀の積み重ねから育まれるものです。
それは、私たちがこの地球で共に生きるための「共感力」とも言えます。
こうした道徳心や共感力は、個人主義や多様性の尊重と対立するものではありません。
むしろ、自分を確立し、他者との健全な関係を築くためには、相手の立場を理解しようとする共感力が欠かせません。
もし私たちが共感力を失うと、SNSなどで自分の幸せを過剰に見せたがる人と、それを見て傷つく人の間で温度差が広がり、孤独や疎外感を強めてしまいます。
それは結果として、社会全体の分断や摩擦を招きかねません。
では、どうすれば共感力を育み、心温まるクリスマスを過ごせるでしょうか?
それは、身近な人に「小さな思いやり」を示すことから始まります。
たとえば、久しぶりに挨拶を交わしたり、困っている人に手を差し伸べたり、また、SNSでは他人と比べるよりも、自分が今日感謝できることを一つ見つけてみるのも良いかもしれません。
クリスマスは、私たちが「共に生きること」の大切さを思い出す日でもあります。
誰かにとって特別な一日をつくるために、自分にできる小さなことを探してみましょう。
その心の温かさは、必ずあなた自身にも返ってくるはずです。
クリスマスの過ごし方の提案
クリスマスに予定がなく、一人で過ごすことを考えると、少し寂しさを感じる方もいるかもしれません。
そんな時、心が満たされる過ごし方を見つけることができれば、クリスマスは決して孤独な日にはなりません。
一人だからこそ楽しめる時間、一人だからこそ見つけられる喜びもあるのです。
この記事では、クリスマスを自分らしく心穏やかに過ごすためのいくつかのアイデアをご提案します。
特別な準備がいらないものや、ほんの少しの工夫で充実感を味わえる方法ばかりです。
あなたの心に響く過ごし方が見つかるきっかけになれば幸いです。
1:こちらから贈り物をする
無いものに心を向けず、クリスマスは自分から「与える日」と考えてみましょう。
私たちは与えることで、与えられるとかんがえるのです。実はこれが最も簡単で、最高の過ごし方です。
それは誰かにプレゼントをし、その人からお返しをもらうということではありません。
たとえば職場のエレベーターで、知らない社員の人と一緒になった時、ちいさくほほえみかけてみましょう。もしかしたら相手からも笑顔が返ってくるかもしれません。
それだけで温かなやりとりが生まれます。
また、近所のお年寄りが町で重そうな荷物をもっているところに会ったとします。「重そうですね、手伝いましょうか」と声をかけてみましょう。
そのお年寄りはにこりともせず、あなたを追い払うように手を振るかもしれません。手伝ってあげても、感謝もされず、会話も弾まないかもしれません。
だけど、「与えることの本当の意味」は、相手の反応ではなく、自分の心に現れる変化や成長にあります。
あなたの心には、人に親切にできたという思い、正しい事をしたという信念が残ります。たとえ相手が自分を悪く言うようなことがあったとしても、それは「許す強さを知る」チャンスです。
また、あなたの前では無愛想だったそのお年寄りが、誰かにあなたの優しさを伝えるきっかけになるかもしれません。
それが見えなくても、あなたの親切が無意味になることは決してありません。
これは、人生の中でふとした形で返ってくるギフトとも言えるでしょう。
クリスマスには、豪華なプレゼントや特別な誰かがいなくても、人は人に最高の贈り物を届けることができるのです。
2:教会へ行ってみる
クリスマスに教会へ行くのは、とても自然でありながら、少し敷居が高く感じるものです。
クリスマスをイベントや娯楽として楽しむ方であれば、キリスト教徒でない限り教会に行く選択肢は思い浮かばないかもしれません。
しかし、もしこの季節に「自分は独りだ」と感じるならば、信徒でなくても、ふらりと教会を訪れてみるのも良い選択肢です。(教会によっては、混雑を避けるために事前連絡が必要な場合もありますので、確認すると安心です。)
教会を訪れる際には、「入信を求められるのでは」と心配する人もいるでしょう。
しかし、多くの教会ではクリスマスの特別な日には勧誘や入信を強要することはほとんどありません。
この日はあくまで「クリスマスの喜びを分かち合う日」として大切にされています。
献金や寄付をお願いされる場合もありますが、義務ではありません。
それは地域や教会活動を支えるためのものであり、数百円程度の少額で構いません。
寄付が難しい場合でも、教会で静かな時間を過ごせたことへの感謝を言葉にして伝えるだけで、教会の方々は喜んでくれるでしょう。
家族連れで訪れている人が多い一方、一人で参加する人も珍しくありません。多くの教会は、クリスマス礼拝にひとりで参加する人を温かく迎え、同じ祈りの時間を共有できる場を提供しています。
初めて会う人たちの祈りに包まれ、温かな笑顔に囲まれるとき、神の祝福が誰にでも平等に注がれていることを感じられるかもしれません。
それは、特別な贈り物のようなひとときです。
3:ほんのちょっと特別な事をする
たとえば、大きなクリスマスケーキがなくても、ホットケーキを焼いてみてはいかがでしょうか。
甘い香りが漂うキッチンは、それだけで心をわくわくさせてくれるはずです。
ホイップクリームやジャムで飾り付けをする時間は、小さなアート作品を作るような楽しさがあります。
松ぼっくりは、とても素朴でかわいらしい自然の贈り物です。松の木があれば、道端に落ちていることも多いので、拾い集めて窓際に飾ってみましょう。
そのままでも十分素敵ですが、金色や銀色のペンで模様を描いたり、小さなリボンをつけたりすると、さらに特別感が増します。
また、家に余っている包装紙や古い雑誌を星形に切り取って、窓に貼ってみたり、ひもでつないでガーランドにするのもおすすめです。
こうした手作りの飾り付けは、クリスマスの雰囲気を簡単に演出してくれます。
実は、これらの飾りにはそれぞれ深い意味があります。
ケーキは西洋のお祝い事で欠かせないデザートであり、その甘味はキリスト誕生の喜びや希望を象徴しています。
常緑のモミの木や松ぼっくりは、永遠の命や豊かさを表し、クリスマスツリーの装飾にも欠かせない存在です。
星形の飾りは、ベツレヘムの星を象徴しており、道しるべや希望のシンボルとされています。
たとえ拾ったものや身近な素材で作った飾りであっても、その象徴する意味は変わりません。飾り付けの派手さではなく、その背景にある思いや祈りが重要なのです。
もっと気軽に楽しむなら、オムライスにケチャップで星を描いたり、バタートーストにひとさじの砂糖をかけるだけでも良いでしょう。
これらのシンプルな工夫が、日常に少しだけ特別な彩りを添えてくれます。
手作りの時間は、ものを作る喜びを感じさせ、同時に心を落ち着けるひとときとなります。
誰かと一緒に作ればその時間がさらに温かい思い出になりますし、一人で作る場合でも、自分と向き合いながら静かな癒しを感じることができるでしょう。
クリスマスは、豪華な装飾や高価な贈り物だけが全てではありません。
身近なものを工夫して楽しむ時間こそが、特別な思い出を生むのです。
クリスマスの過ごし方・まとめ
現代の日本のクリスマスは、華やかな理想の風景を先に見せ、それを背景に人々に「足りないもの」を意識させる風潮が強いかもしれません。
しかし、無いものに焦燥を感じたり、無理に埋め合わせをして人と比較しようとすることは、クリスマスの本来の意味から大きく離れています。
クリスマスは、「神様の愛がすでに平等にすべての人に与えられている日」です。
たとえごちそうのない食卓でも、独りきりの寒い夜でも、そこにはすでに愛や希望が満ちています。
それに気づくことができたとき、私たちはクリスマスの本当の意味を知り、日常の中に隠れた贈り物の存在を発見するでしょう。
すでに与えられている豊かさに気づき、その喜びを感じたら、次にそれを少しだけ他の誰かと分かち合ってみてはいかがでしょうか。
たとえば、笑顔を贈る、親切な言葉をかける、感謝を伝える。
それだけでも、クリスマスは心に明るい灯りをともす日となるはずです。
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