一番大きな数字を考える:無限の輪廻と悟りへの道
一番大きい数字というものを考えてみたいと思います。
1に1を足せば2, 2に1を足せば3…
これを繰り返していくと、どこまで書いてもきりがありません。
これはまさに無限のようです。
こちらの記事では無限の数字にこめられた仏教の考えを紹介し、
人が大きい数字とどのように関わってきたのか探ります。
いちばん大きい数の単位は…無量大数!?
数には限りがないと言っても、言葉として表現するにあたり、数が大きくなるたびに延々と名前をつけていられませんから、ある程度の所で表現を切り上げる必要があります。
日本語で言えるところまで言ってみましょう。
一、十、百、千、万、億、兆、京(けい)、垓(がい)、 秭(し)、穣(じょう)、溝(こう)、澗(かん)、正(せい) 、載(さい)、極(ごく)、恒河沙(ごうがしゃ)、 阿僧祇(あそうぎ)、 那由他(なゆた)、不可思議(ふかしぎ)、無量大数(むりょうたいすう)
これでだいたい最大の数までを言い尽くしています。
日本語なら、一番大きい数字は無量大数でよいでしょう。
数の表現は中国、インドから来ました
「一」から「無量大数」までの言い方は、由来が中国にさかのぼるものと、インドまでさかのぼるものに分けられます。
「一」から「極」までは中国から
「一」から「極(ごく)」までの漢字は、中国古代の数学や哲学に由来していて、社会の中で数字を使った記録や計算が必要になったことで発展しました。
数学的であり、実用的な概念の数たちです。
今でも「兆」や「京」あたりまでならニュースなどで耳にすることもあり、比較的身近で実用性を感じる単位です。
「恒河沙」から「無量大数」まではインドから
「恒河沙(ごうがしゃ)」から「無量大数」までの大きな数の単位は、すべて仏教に由来する用語です。
これらは、仏教経典の中で宇宙の広大さや時間の長さを表現するために使われてきました。
暮らしの中でこれらを使って数をかぞえることはまずないでしょう。
「恒河沙」よりあとは、じっさいに何かを数えるための言葉というより、大きさを表すためのものと言えます。
なぜインドの人はそんなに大きい数が必要だったの?
数として最大のものは無量大数だと言いましたが、実はもとになったサンスクリット語では、無量大数が最大ではありません。
恒河沙からあとの字の意味を見てみれば、どれが一番でもないことに気づきます。
恒河沙…「ガンジス川の砂の数ほど」多い
阿僧祇…「計算や思考の範囲を超えた」数
那由他…「途方もないほど」大きい
不可思議…「人が思考することも、言葉で表現することもできないほど」多い
無量大数…「無限に近い大きな」数
このように、恒河沙から後の言葉は、どれもが「無限の広さや多さ」をイメージさせる表現です。
仏教哲学で重視されるのは、大小を超えた「無限」や「空(くう)」の概念です。
「一番何々である」や「大きい」「小さい」といった比較そのものが、最終的には無意味であると説かれています。
つまり、仏教では「無限」という根本的な大きさの概念があり、それを具体化し、信者に伝えるために「恒河沙」や「那由他」などの比喩を用いたのです。
それぞれの言葉は、無限をさまざまな角度から表現する象徴的な役割を担っています。
ではなぜ日本では無量大数が一番大きいものとされているのでしょうか。
それは、仏教がインドから中国にわたった時に、これらの言葉が中国文化の影響を受けたからです。
インドから来た仏教の言葉は、中国の数の体系と結びつきました。
どれもが「無限にひろく大きい」ではなく、一つ一つを分け、段階的な大きな数の単位として再編されたのです。
この整理は、信者が教えを理解するのに役立ちました。
いきなり「無限」と言われてもピンときませんが、ガンジス川の砂の数ほど多いと言われたら、その多さは理解しやすいですし、つぎはそれより多い…次はもっと多いと段階的に言われたら、無限というものの果てしなさが分かり易くなります。
インドでは大きな数が必要だったというより、仏教は無限の概念を重視していて、それを表現するために様々な言葉を用いることになったと言えます。
生きることは「苦」を伴う
なぜ仏教は、「無限」にそんなにこだわるのでしょうか。
それは、仏教の基本的な考え方「輪廻転生」に関係があります。
輪廻転生は、すべての生あるものは生と死のサイクルを無限に繰り返すという考えかたです。そしてそれは苦しみの原因とされます。
仏教徒にとって、生きることは「苦」を伴うとされています。
裕福で健康な人は、一見苦しみが少ないように思えます。しかし、仏教では、どのような環境にいる人でも避けられない苦しみがあると説きます。
具体的には次のようなものです。
四苦…(生、老、病、死)
八苦…(愛する人と別れる苦しみ、憎い人と会う苦しみ、欲しいものが得られない苦しみ、心身が満たされない苦しみ)この八苦は、上記の四苦とあわせることで八と数えます。
仏教では、これらの苦しみは「煩悩(ぼんのう)」、つまり欲望や執着から生じると説かれます。
煩悩は人間として自然な感情ですが、過度になると心を乱し、苦しみの原因になります。
仏教では、この苦しみから抜け出す道を「悟り」によって見いだします。
「悟り」とは、煩悩や執着にとらわれず、心が自由になり、平安を得ることです。この境地に至ることで、無限の輪廻の苦しみから解脱できると考えられています。
永遠の苦からの離脱、永遠の浄土へ
仏教の考えでは、人は死ぬと再び転生します。
生きることは必ず苦を伴うため、輪廻転生をくり返す限り、無限に苦しみ続けることになります。しかし、その中で「悟り」を得た人は、死後に転生することがなくなります。
この状態を「涅槃に入る」といいます。
悟りを得たひとは、無限の苦しみから離脱し、永遠の安寧の境地に至るのです。
これを理解するには、無限の時間という概念を深く考える必要があります。
私たちの人生はおよそ100年程度で、その中で扱う時間はさらに短い日常的な単位です。こうした私たちの感覚では、「無限」というスケールを実感するのは難しいかもしれません。
無限の苦しみと無限の安寧――この両者の違いを理解するために、仏教ではさまざまな比喩を用います。
たとえば、「ガンジス川の砂の数」という果てしない多さや、「非常に高い岩山を100年に一度、シルクの布で軽く擦り、その岩が完全にすり減ってなくなるまでの時間」といった、気の遠くなるようなスケールのたとえ話です。
これらの言葉は、輪廻の壮大さと、涅槃に入ることの解放感を、私たちに想像させるために用いられてきました。
修業にかかる時間の長さ
この世で悟りを得た人たちは、「阿羅漢」「仏」「菩薩」などと呼ばれます。
この三者は、それぞれ少しちがいがあります。
阿羅漢は、自己の解脱を優先して輪廻から離れた存在、
仏は真理を悟り、教えを広めた存在、
菩薩は、自らの悟りを後回しにしてでも、苦しむ人々(衆生)を救うことを誓った存在です。
菩薩は何度も何度も転生し、苦しみの中にある衆生を救うために活動します。
しかし、阿羅漢や仏は一度涅槃に入ると、その後は輪廻から完全に解脱し、転生することはありません。
では、この阿羅漢、仏、菩薩は「えらばれた優れた人たち」だったのでしょうか?
そうとも言えますが、それだけではありません。
彼らは、悟りを得るまでに「無限とも思える長い時間」をかけて修業を積み重ねてきた存在です。
仏教では、この修業の長さを表現するために、大きな数字が不可欠でした。
輪廻転生を繰り返す壮大なスケール、苦しみの中で修業する衆生の数、そして仏や菩薩の慈悲の広がり――これらを説明するために、仏教は「無限」に近い概念を数字として表現しました。
阿羅漢、仏、菩薩がどれほどの時をかけ、どれほどの試練を乗り越えて悟りに至ったのか。その背景には、私たちが日常で想像もできないような長い時間と広がりがあるのです。
日本にはないの?一番大きい数字
日本で一番大きい数字と言えば、「八百万(やおよろず)」という表現があります。
日本の八百万の神々はあらゆる事物に宿り、日々増え続ける可能性を秘めています。
もしわたしたち日本人が地球をとびだし宇宙で暮らし始めたら、行く先々で神さまを見出すでしょうから、八百万はまさに「無限」です。
ただインド伝来の仏教が考える無限と、日本の八百万とは概念が異なります。
次にこのふたつの「無限」についても見てみましょう。
日本の無限
「八百万」という言葉は、具体的な数を示しているのではありません。
これは「無数である」こと、「いろいろなものである」ことを表現しています。
八百万の神がみは、日本人の自然観や多神教的な精神を反映し、今ある数よりさらに「増え続ける可能性」を含んだ抽象的な概念です。
たとえば、現代日本で愛らしいキャラクターが次々と生まれ、人々に親しまれていく背景には、このような柔軟な「八百万の精神」が関係しているのかもしれません。
キャラクターたちは、まるで新しい神々のように、私たちの生活に溶け込み、物語や思いを共有していく存在になっています。
またこの言葉は「多さ」「多様性」を表すだけでなく、「豊かさ」も象徴しています。
これを理解するためには、「質的な無限」という視点が重要です。
たとえば、夜空を見上げて星を数えるとき、単に何個あるかを数えるのではなく、赤く輝く星、青白い星、雲越しに見える淡い星――その一つひとつに違いを見出し、特別な意味を感じるたびに、新しい神を発見するような感覚です。
八百万とは、まさにこの「新しいものを見出す無限の可能性」を表す言葉なのです。
世界的に見ても非常に独特な、日本の柔軟な無限感を表わすのが八百万という言葉です。
インド、中国伝来の仏教の無限
仏教では、最終的に「大小の比較」を超えた境地を重視しています。
大小や多い、少ないを計ることが最終目的ではなく、無限の壮大さを通じて、人間の思考の枠を超えた世界をしめすのです。
仏教で語られる「無限」を表す多くの言葉は、インドで生まれ、中国を経て日本に伝わる中で、具体的な数値、数の単位として扱われるようになりました。
現在、仏教用語は巨大な数を具体的に扱い、「無限のスケール」を量的に示すための表現となっています。
たとえば、日本の「八百万」が新しい神々を見出し続ける「質的な無限」であるのに対し、仏教の数字がしめす無限は「量的な無限」、つまり膨大な数のひろがりです。
例えるなら、仏教の無限は、大きな図書館の本棚のようなものです。
本棚には何千冊もの本が並んでいますが、その中にまた新しい本棚が無限に続いていくような感覚です。その壮大なスケールを感じさせるために、「恒河沙」や「那由他」といった言葉が用いられています。
これらの言葉は、目が回るほど計り知れない量の壮大さを想像させるためのものです。
一番大きな数字も超える、いちばん大切なもの
いろいろ調べていると、無量大数よりもっと多くを表わすとされる言葉「不可説不可説転」なども出てきます。
インドの仏教思想を中国で発展させた経典、たとえば『華厳経』ではこの数を通じて仏教の壮大な宇宙観を伝えています。
でも「無量大数」や「不可説不可説転」などの言葉が由来する仏教では、「一番大きい」とは相対的なものにすぎません。
巨大数字の中では小さいほうにあるとされる「恒河沙」はガンジス川の砂をかぞえた数でしたが、「無量大数」も「不可説不可説転」もそれを「繰り返す」、さらに「繰り返す」というように、スケールを拡大していった延長にあるものです。
例えどれだけ途方もない大きな数があったとしても、仏教がつたえる大切なことは、その大きいかどうかの延長線上にはありません。
大切なのは何が一番大きいかではなく、輪廻からの解脱と他者への慈悲、心の平安なのです。
一番大きな数字のまとめ
1、2、3……と続く数字は、どこまで続くのか。これは誰もが一度は考える疑問です。
数字の世界を追いかけていくと、やがて億、兆、京といった単位を超え、恒河沙や阿僧祇といった仏教由来の言葉にたどり着きます。
これらの言葉は、インド発祥の仏教が中国を経て日本に伝わった際、一緒に受け継がれてきたものです。しかし、仏教では「何が一番大きいか」を重視しているわけではありません。
仏教の大きな数字が示しているのは、単なる大きさではなく、そのスケールの中に込められた深い意味です。
それは、輪廻転生の果てしない時間の長さや、浄土の永遠性、仏さまが救う無数の衆生の数、何度も生まれ変わりながら他者を救う菩薩さまの慈悲の広がりを象徴しています。
こうした壮大なスケールは、私たちにただ数を眺めるだけではなく、「心の平安」へと至る道を考えさせてくれます。
どれほど無限の広がりがあっても、最終的に重要なのは、自分の内なる安らぎを見つけ、悟りの道を歩むこと。
仏教が教える「無限」とは、私たちの心をより深く広げるためのメッセージなのです。
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