スポーツ選手の誓いのポーズに見る日本の「以心伝心」
スポーツの国際試合あるいはメディアの演出などで、選手や役者が胸に手を当てて祈る、あるいはこぶしをあててうなずき、誓いを示す姿がよく見られるようになりました。
その真摯な様子になぜかドキリとして、そわそわして、人知れず動揺してしまう日本人は少なからずいるのではないでしょうか。
この記事ではそのドキリはどこからくるのか、日本文化における祈り、誓い、そして決意と戦いの伝統について、欧米と比較しながら考えます。
腹とハートの文化・日本と欧米
日本の場合・腹(肚・はら)におさめる
ときめきや悲しみ、感情を感じるのは、体のどこでしょうか?
おそらく多くの人にとって胸のあたりです。
ときめく時、焦ったとき、心臓がどきどき速く打ちます。ちくちく痛むこともあります。胸がつまって息ができないような感覚をおぼえる人もいるでしょう。
わたしたち日本人にとっても、胸はものごとを感じて反応する大事な部分です。
この記事の冒頭のどきりとした感覚も、胸のあたりで感じます。
それはたいてい一過性で、その感情がおさまれば「胸をなでおろす」のです。
一方で私たちには、古い時代から自分の喜びや悲しみ、本音そのものを、あからさまには他者にアピールしない風習がありました。
ちょっと考えがくい違うと思っても、丸く収めることが最重要で、本音は出さないでやり過ごします。
それは私たちが、農耕に従事して生きてきたことが影響しているかもしれません。
同じ土地に住んで、村人どうし協力して田畑を耕し生きていくには、ひとりひとりが主張することよりも、例年の作業に足並みをそろえて取り組むことが第一でした。
ではそのひっこめられた主張、つまり「ホンネ」は、わたしたちの体のどこへ行くのでしょう?
それは「腹」です。
胸よりさらに奥、食べたものが変化したり、虫が鳴いてるみたいなグーっという音がしたり、女性だったら赤ちゃんを宿したり、人体の中でなんとも奇妙でよくわからないところ。
腹は自分のからだの中で、探りようもないくらい深く見えないところです。
しかもいつも服や帯でつつんでいて、いっそう人から見えないようにできるところでもあります。
また、手足が短い体形で農具をあやつるには、重心は低くなります。
腰をすえて、腹に力をこめるのが基本的な体の使い方で、おのずと腹のあたりを自分の中心だと考えるようになりました。
何かを守ったりかくすには、腹こそ打ってつけの場所です。
日本人はそこに「本心」をおさめました。
胸に感じるもの頭で考えること、それらをひとまず「腹」におさめてから、日本人は表情を浮かべ、ことばを発します。
映画「男はつらいよ」※1で主人公の寅さんが「顔で笑って腹で泣く」※2と歌っていますが、それは「自分の辛い心は人に見せない(だけどもやっぱりつらいんだよ)」と言っているのです。
そしてそれを「察する」文化も、日本人は発達させてきました。お兄ちゃん(寅さん)の背中を見て、妹のさくらは涙する目をおさえるのです。
ただ死にゆくなら心臓や首が適所のはずが、武士は切腹でわざわざ腹を切って自分の「すべて」を晒し、魂を示します。
腹を決めたり探り合ったり、日本は「腹」の文化です。
欧米の場合・ハートに宿る
一方、西洋では心をかくすことはあっても、「腹」に心をおさめるという認識はありませんでした。
これは、かれらが長い間狩猟で生きてきたことも影響しているかもしれません。
古い時代に狩猟をしていた彼らは、日常的にすばやく仲間にサインをおくる必要がありました。
「あそこに獲物がいる、おれはこっちから行くから、おまえは向こうから回れ」、これを素早く、的確に、でも獲物に気づかれないようにやりとりしなければなりません。
サインがあいまいでは意思疎通が図れず、獲物ににげられ、または自分たちも危険な目にあいました。
そして獲物をとれば歓喜します。
家族の待つホームへ凱旋します。
この一連の流れは、現代の人気の競技、特に一つのボールをつかって行うサッカーやラグビーなどにそっくりです。
歓喜をハートで感じるのは、日本人と同じですが、ここに至るまでの流れが我々とはだいぶちがいます。臨機応変にアタマを働かせながら互いにサインを送り合い、速く走るために重心もきっと高めに保ちます。
かれらには腹に一物もつ時間も必要もなかったはずです。
欧米は「アタマ」と「ハート」の文化です。
戦う意識のちがい
日本の場合・いさぎよく散る
いわゆる「武士道精神」では、名誉と義務で戦いに行きます。
戦いにあたっては如何にいさぎよく振舞うか、そして如何にいさぎよく死ぬかが重視されました。
そこに、「凱旋」の考えはありません。
お上に対しの「手柄」というものはあっても、生きて戻り「英雄」になる発想はそもそもありません。仮に本当は生きて戻りたいと思っても、それは腹の奥底にしまいこみます。
縦割り社会の中で、お上に求められる役割を果たすのは義務で、この期に及んで潔くふるまえないのは恥です。
戦いに際しては潔く死ぬこと、少なくともそのような姿勢を見せる事があたりまえの思考でした。
欧米の場合・英雄の凱旋
欧米では凱旋し、英雄になる考えが根付いています。
狩りで動物と戦うのは名誉のためではありません。日常的に繰り広げられるこの戦いは生活のためであり、獲物をとらえてホームに凱旋するのは当たり前のことでした。
宗教的に神のために戦うこともあります。他民族が移動をくりかえしてきた中で、戦いは相手から挑まれることも、自分たちから挑むこともあったでしょう。
どちらであっても、戦いに臨むときは勝利して凱旋し、ホームで英雄として迎え入れられるのが理想のかたちです。
多くの映画作品などは、この図式でストーリーが描かれています。
死という結末で英雄になることはあっても、彼らはいかに死ぬかと始めから考えたりはしません。
欧米と日本では、戦いに対する認識がちがいます。
戦いの「記憶」のちがい
日本の場合・敗戦の記憶
日本では、平和記念日と言えば8月の終戦記念日と、広島・長崎原爆記念日です。
この日は、国民は頭をたれ静かに哀悼を示し、もう二度と戦争があってはならないと誓いをあらたにします。
終戦の映像では国民は静かにラジオに聞き入り、うつむいていますが、日本ではあの時のうつむいた姿が、今も変わらず平和記念の日に受け継がれ残っているのです。
原爆によって、都市ごと消滅したことは前代未聞の出来事でした。
痛手は大きく、何年も何年も苦しみました。
日本にとって、戦いの記憶は「痛すぎる敗戦」のまま凍り付いています。
欧米の場合・平和を「勝ち取った」記憶
一方の欧米はどうでしょうか。
欧米で11月11日などに行われる平和記念日には、やはり戦没者に静かに哀悼をしめし、反戦の誓いをあらたにします。
でも、日本と大きく異なる点があります。
欧米の戦勝国では、かつての終戦の日には人々は鐘を鳴らし、抱き合って喜んだのです。
彼らにとっても戦いの傷は大きかったものの、近年の戦いの結末は「勝利」であり、平和記念日は「平和を勝ち取った記念日」でもあります。
このように日本と欧米では、戦いの「記憶」に差があります。
リアクション、主張の差
日本の場合・察する文化
腹の中に本音をしまうのは、その本音を隠すためです。
でも隠すのは、ほんとに人に知られたくないものと、恥があったりして人に言えないけど本当は酌んで(くんで)もらいたいものの両方あります。
「くんでもらう」というのは「わかってもらう」という事ですが、これもはっきり「わかって」とは言いません。
腹の奥に気持ちをしまって置いておくから、それをあなたから酌んで(察して)くれないか、というのです。
それは令和の現代でも受け継がれています。
相手が何も言わず何のリアクションをしなくても、日本人にとってはそれが普通で、ごく自然に相手の気持ちを察することができます。
こうして互いに自制して、目立つことなく、穏やかな中に全体の調和を図るのが日本と、儒教の影響下にある近隣の国々の伝統的なやりかたです。
そんなですから、相手のアピールやリアクションが予想以上に大きかったりすると、いつも張り巡らせている「他人の気持ちを察するための感度抜群のアンテナ」が過度に反応してしまい、ウソっぽく感じたり、違和感をおぼえたりすることがあります。
欧米の場合・主張する文化
一方の欧米では、理性的に自ら考え、神のもとに平等な一個人として自分の意見を明示することを重視します。
彼らにとっては、人が互いに異なる意見をもつことは自然なことです。
たがいに納得できる結論や合意にたどりつくために、かれらは議論や討論をかさねます。
その過程でははげしい対立もありますが、かえって互いの理解度が増し、関係性がいっそう深まったり信頼が強まったりもします。
これが西洋での調和を図る方法です。
ですから彼らは自分の意思、感情をはっきり示すのがあたりまえで、東洋の私たちから見ると表現のしかたがオーバーに感じることがあります。
逆に西洋の人たちの目には、東洋の人々が本心では何を思っているのか、理解できないところがあるのです。
信じる神さまのちがい
日本の場合・神のために踊る
日本は自然崇拝です。
八百万の神々は、この国の美しいバランスを保ち、わたしたちの暮らしを成り立たせてくれています。
北島三郎さんが「まつり」※3で歌うように、私たちは山の物がとれれば山の神さまに感謝し、海のものがとれれば海の神さまに感謝してきました。
日本人は八百万の神がみを畏怖しつつ、同時に一体化してありのままにあろうともします。神様が、自然そのものだからです。
日本であらゆる事物に宿る神様は怒ったり喜んだりしますが、私たちにこれといった「教え」を広げるようにとは言いません。
だからキリシタンが入って来る前、もともとの日本人には神のために戦うという発想がありません。私たちは神さまのため、また仏さまの供養のためには踊るのです。
歴史上、宗教や神にからむ戦いは日本にもありました。
でもそれは次に紹介する、欧米の「神のための戦い」とは違うものです。
欧米の場合・神のために戦う
欧米に限らず、神様の教えのために戦う国は少なくありません。
教義にそのような教えがある場合があります。
その戦いは「正義」のためにおこなわれ、「教えを守り、広める」ために、時として積極的に戦いに挑まなければならないのです。
中世ヨーロッパの十字軍はとても有名です。
また、イスラム教では「神の道を守るための努力」としてジハード(聖戦)があります。
他にも、神の意思に基づく戦争は、古代からいたるところでありました。
このように、信じる神さまのために戦うか、戦わないかは欧米と日本の大きな違いです。
「神のために戦う」という事は、精神や魂といった全霊をかけて戦うということあって、日本人が古来八百万の神々にたいして向けてきたものと言えば「共鳴」「調和」「感謝」なのですから、だいぶ感覚が異なります。
誓いのポーズに「どきり」とする理由
ここまで見て来て、スポーツの試合時に胸に手をあてるポーズを見て「どきり」とするのは、以下の四点による理由からではないかとたどりつきました。
1:どちらかと言えば、日本人は胸より腹で生きてきたので、胸に手をあてるのは場所が違う気がする。そもそも腹におさめたのはあからさまにしたくないからであり、わざわざ手でその場所を示すことはできない。
2:本気の戦いを前にした時、日本人はそれを死にゆくと認識し、凱旋という概念をもたない。そうであるから、死なないと分かっている戦いで本気度を示されても、それが真摯であればある程、どこかに違和感をおぼえてしまう。
3:相手が何も表さなくても察しあう社会に暮らしていて、自主的な主張を見ることには慣れていない。人心を推し量るアンテナ感度が良すぎるために、言動があからさまであればある程、過度に反応してしまう。
4:戦いが信仰とは概念上結びついておらず、戦いの前に全身全霊をかけて(神に)誓うというスタイルには馴染みがない。
誓いのポーズの提案
とは言え、いろいろな国の選手たちが一定のポーズをともなって決意表明をし、誓いを立てている中で、日本人だけ何もしないのは、心もとなさがあるかも知れません。
欧米に限らず、韓国やメキシコなど各国の選手たちが、自分たちのやり方で敬礼したりする姿を見るのは、国を越えて感激します。競技が異なればまた独特のスタイルで自分たちの精神を示す選手団もあって、彼らの姿はひときわ輝いて見えます。
日本人も何かしたい、何かないでしょうか。
もちろん外国の作法をそのまま導入するのは自由な表現であり、すばらしい革新です。
習うもよし、独創するもよし、と言えます。
そこでこのブログでもグローバルな流れに乗って、それなりに日本人らしく、かつ対外的にも通じそうなポーズを提案をしたいと思います。
1.徹底的に何もしない
直立不動に磨きをかけることを、まず提案します。
何も表さないという状態は、もっとも日本人らしい精神性を表します。
自然体で立ってもいいですし、いつもより胸を張り気味にしてもいいでしょう。
背筋をぐっとひきあげれば、控えめながらパワーポーズになります。
背骨を鋼のように立て頭は上にひきあげますが、腹から下は沈めるようにし、両足の裏で地面をつかみます。呼吸は深く、自分の中に静けさを感じます。
この状態は競技前の精神集中にも効果的です。
国歌が流れるときにも、いちばん自然です。
競技開始では自分をたたいたり、声を発したり、軽いステップを踏むことで、ただちに重心をあげるようにします。東洋から西洋への切り替えが必要となります。
2.直立不動からの一礼
おじぎは、世界的に見て日本を思わせる美しい所作です。
おじぎならどのような時も礼節を重んじる日本の姿勢を体現でき、どの国のポーズにも劣ることはないでしょう。
潔く深くさげてもいいですし、かすかに腰から折るだけでも、普段の日本人の腰の低さとの表現の差がついて印象的です。
角度、タイミング、間のとりかた、静寂の瞬間をくふうすれば、美しいだけでなく選手の心を一つにすることができます。
3.一礼からの直立不動
これは2と順番が逆です。
先に小さく一礼した後に、ひたすら背筋をのばして立ちます。
目は眼球を中にひきこむように軽く力を入れます。何もせず、時間をとめます。
この間(ま)によって、日本の観衆は選手の熱い心に同調、深く共感するでしょう。
選手は目で語り背中で語り、わたしたち日本の観客は選手の心を「察し」、総力をあげて静かに一丸となります。一方で外国の観客はこのような私たちを「日本らしい」と感じてくれるかもしれません。
4.後ろ手に組む
試合に向けたポーズとして多くの国は敬礼をしますが、勝利のためにパワーポーズを選択するのも合理的です。
もし日本のチョイスが「特になにもしない」のであれば、胸を張って両手を後ろにあわせて組み、両足はやや開いて、自分を大きく見せて立つのもおすすめです。
あごは引きながらも、やや上にあげます。
日本らしく、何の主張のポーズもとらない様に見せながら、さりげないパワーポーズを活用します。
緊張を解き、パワーを充実させるために、すこし明るい笑顔にしてもよいかもしれません。
スポーツは全身全霊をかけた戦いであっても、凱旋のない悲しい戦いではありません。
むしろ楽しく喜ばしい晴れ舞台であり、それはある意味「祭り」です。
その大舞台が祭りなら、日本人は伝統的に大の得意で、神様のために踊り歌う私たちのたましいは、誰にも止められないでしょう。
後ろ手ではなく、選手同士が肩や腰に手を回している姿も温かみがあり、見ていてうれしくなります。
和を尊び、感謝で神々とつながっている日本人には、これもぴったりな姿です。
以心伝心・まとめ
「頭」や「胸」に精神が宿ると考える欧米に対し、日本は「腹」に重きをおく文化です。
腹に本心を秘め、長いあいだ義務や恥を判断や言動の基準として生きてきました。
また、八百万の神さまの性質上、日本人は信仰のために戦い、英雄となってふたたび日常に戻るという戦いのスタイルをもちません。
そのために近年国際的な場で、見慣れない異国の「誓い」の作法にどきりとすることがあります。
でもここに、私たちの「以心伝心」文化の素晴らしさを再発見することができます。
最後に誓いのポーズの補足「各自、完全に自由」というものを提案して、今回の記事を終えたいと思います。
これは、思う通りの信念で、信じる気持ちのままに、バラバラでいいから自分の一番ふさわしいと思う形をとるというものです。
はみ出すことを避け、協調することに重きを置く私たちは、痛いほど他者の心に敏感です。
選手たちがどんなにバラバラのポーズをとっていても、その熱い心が一致団結していることは、かならず察してわかるのですから。
関連資料
〇※1原作・監督:山田洋二, 映画「男はつらいよ」, 主演:渥美清, 松竹, 1969~1995
〇※2作詞:星野哲郎, 作曲:山本直純,「男はつらいよ」, 唄:渥美清, クラウンレコード,1970
〇※3作詞:なかにし礼, 作曲:原譲二,「まつり」, 歌:北島三郎, 日本クラウン, 1984
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